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真屋順子と見栄晴の確執の真相――「欽どこ」が生んだ親子の絆と不義理の10年

真屋順子と見栄晴の確執の真相――「欽どこ」が生んだ親子の絆と不義理の10年

欽ちゃんのどこまでやるの テレビ朝日

芸能界の「確執」という言葉は、往々にして誇張されたり、スキャンダルとして消費されたりする。しかし、真屋順子と見栄晴をめぐる不仲の話は、そのどちらとも少し違う。憎しみではなく、深すぎる愛情が生んだすれ違い。10年以上にわたって二人の間に横たわった溝の正体を、当時の経緯とともに丁寧に辿っていく。

昭和のお茶の間を席巻した女優・真屋順子とはどんな人物か

真屋順子(まや じゅんこ、1942年1月8日 ― 2017年12月28日)は日本の女優である。本名は高津詔子。松竹歌劇団、俳優座養成所(13期生)、劇団雲の研究生を経て1975年に演劇集団・円へ参加した。舞台畑で着実にキャリアを積み上げながら、テレビドラマやバラエティ番組にも活躍の場を広げていった。

家庭的なイメージを作り上げ、1976年から放送されて高視聴率を記録した『欽ちゃんのどこまでやるの!』にお母さん役でレギュラー出演したことで人気を得る。萩本欽一演じるお父さんとの軽妙なやり取りが視聴者の笑いを誘い、三つ子の「のぞみ(高部知子さん)」「かなえ(倉沢淳美さん)」「たまえ(高橋真美さん)」と共に、ほのぼのとした家族像がお茶の間に定着した。この番組は10年間続き、真屋の名前は「国民のお母さん」として広く知れ渡った。

舞台女優としての顔も忘れてはならない。1980年に劇団樹間舎を旗揚げし、演劇の世界でも第一線を走り続けた。「太陽にほえろ」「赤いシリーズ」では悪役も演じ、お母さんイメージとは正反対の迫力ある演技で業界の評価を高めていった人物でもある。

見栄晴が「欽どこ」に加わった背景

見栄晴 芸能人

1976年から放送された「欽ちゃんのどこまでやるの!」(テレビ朝日系列局)にお母さん役でレギュラー出演した真屋さん。その後、1982年に大人になった長男として登場したのが、見栄晴さんだったのです。当時、真屋さんは40歳、見栄晴さんは16歳でした。

『欽ちゃんのどこまでやるの!?』の番組リニューアルで学生に成長した見栄晴役のオーディションが行われた。最終オーディションで二名が残り、萩本欽一さんが残った二人にじゃんけんをさせ、勝った藤本(現・見栄晴)さんがレギュラーとなった。

じゃんけんで運命が決まったという話は、今となっては伝説的なエピソードだ。まだ芸能界の右も左もわからなかった16歳の少年が、40歳の真屋の隣に立つことになった。年の差は24歳。当時の見栄晴さんはデビューしたてで周りのことがわからなかったが、真屋さんから「見栄晴、あなたは本番に強いから大丈夫よ!頑張って!」と励まされたそうだ。画面の外でも、真屋は本当の母親のように見栄晴を気にかけ、支え続けた。

確執の発端――報告されなかった結婚と出産

問題が表面化したのは、番組が終了して20年以上が過ぎた後のことだった。穏やかに老いていくはずだった二人の関係に、静かに亀裂が走った。

理由は、本当の息子のように可愛がっていた見栄晴さんが、結婚・出産(2007年4月3日に入籍、9月25日に長女が誕生)の報告を一切しなかったことを不義理に感じていたためでした。長年、息子のように接してきた相手から、人生最大の喜びごとについて一切連絡がなかった。その沈黙が、真屋の心に深い傷を残した。

あんなに、欽ちゃんファミリーとして一緒に頑張ってきたのに、結婚しても子供が生まれても、真屋さんに何の報告もなかったことにとてもショックを受けたそうです。真屋は「芸能界に許せない人物がいる」という言葉まで口にするようになり、それ以前の取材でも見栄晴さんを完全に拒否し、見栄晴さんに会いたくないとまで語っていました。

「可愛さ余って憎さ百倍」という言葉がある。息子同然に目をかけてきたからこそ、その不義理は通常の数倍、胸に刺さった。単なる芸能上の不仲ではなく、疑似的な親子関係が抱えていた感情の重さが、この確執の根っこにあった。

見栄晴が報告できなかった本当の理由

親の介護 家族 日本

一方で、見栄晴の側にも事情があった。ただの怠慢や無神経さではなかった、という点は丁寧に伝えておかなければならない。

実は見栄晴さんは、真屋さんが怒っているとはこの時まで知りませんでした。2007年当時、確かに結婚・出産と立て続けに喜ばしい出来事が起きていた見栄晴さんでしたが、同時期に母親の介護で手一杯だったのです。

見栄晴さんは8歳の時に父親を亡くし、母親に女手一つで育ててもらいました。また子役時代に稼いだ大金を宴席やギャンブルなどで使い果たし、さらに消費者金融から1000万円もの借金を重ねた際にも、700万円を肩代わりしてくれたのです。そんな恩人である実母が、同時期に指定難病に認定されている前頭葉萎縮現象を患い、脚も骨折するなど病状が悪化…病気の影響で、自宅に物をため込むようになり、あっという間に自宅がゴミ屋敷になってしまいました。

自分の実母が、ゴミ屋敷化した家の中で難病と格闘している。そんな状況の中で、見栄晴が真屋への報告を後回しにしたことは、決して弁護できないが、理解はできる話だ。ちょうど見栄晴さんが結婚をした時期ぐらいに、見栄晴さんの母親の容体も悪くなり、介護にも追われていたようで、それで真屋順子さんに言いそびれたようですね。言いそびれた日々が積み重なり、結果として何年もの沈黙になった。

2015年、「爆報!THEフライデー」が生んだ再会と和解

この確執が初めて公になったのは、2015年2月20日に放送された「爆報!THEフライデー」(TBSテレビ)でのことだった。この番組で真屋が「芸能界に許せない人物」として見栄晴の名前を挙げたことが、長年の確執を世間に知らしめた。

しかし番組はそこで終わらなかった。2015年の同番組には、サプライズゲストとして当の本人である見栄晴さんも出演していました。そこで見栄晴さんが素直に「ごめんなさい」と謝ったことで、真屋さんも矛(ほこ)をおさめてくれたのです。

真屋さんは、見栄晴くんは照れ屋が逆に出ちゃってね…と、理解を示し、見栄晴くんが「ごめんなさい」と言ったから、許すことにしたそうです。そして、何も変わっていない見栄晴くんに「見栄晴は良い子だね」と言いました。

たった一言の謝罪で、10年近くの溝が埋まった。その事実は、二人の関係がいかに根の深い信頼の上に成り立っていたかを示す。怒りが深かったのは、愛情が深かったからに他ならない。

真屋順子の壮絶な闘病生活

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見栄晴との確執が注目を集めた背景には、真屋自身が長年にわたって病と戦い続けていたという事実がある。その闘病の歴史は、並みのドラマをはるかに超える。

2000年12月23日に音楽会の司会として舞台上に出演している最中に脳出血で倒れて左半身麻痺などの後遺症が残ってしまいました。その後は夫である高津さんの懸命な看病とリハビリテーションで車椅子ながらも舞台に復帰をしていました。2004年には脳梗塞を発症するも2005年には再び舞台で復帰を果たしています。

舞台の上で倒れる。それだけで普通の人なら心が折れる。ところが真屋は、左半身が動かない身体を抱えたまま、また舞台に立つことを選んだ。夫・高津住男の支えがあったことも大きかった。しかし2010年に夫の高津住男さんと死別してしまいます。支えを失った後も、真屋は生きることをやめなかった。

2017年7月21日に出演したTBSテレビ『爆報!THE フライデー』で、ほぼ寝たきりの状態となったことが明らかになった。これが生前最後のメディア出演となった。そして同年12月28日3時46分、全身衰弱のため東京都文京区の病院で死去。75歳没。2018年1月5日に死去が報じられた。没後の同年2月15日にお別れの会が催され、萩本欽一、見栄晴、小堺一機など『欽どこファミリー』が出席して故人を偲んだ。

真屋の訃報を聞いた見栄晴のコメント

和解から2年ほどが過ぎた2017年末、真屋は静かに旅立った。訃報を受けた見栄晴は、深い悲しみとともに言葉を残した。

「舞台のこと、笑いのこと、デビューして分からず、悩んだり、落ち込んでいる僕に、いつも舞台の袖で『見栄晴、あなは本番に強いから大丈夫よ!頑張って!』と励まし、優しくしていただいたことを忘れません」と見栄晴は語った。

さらに「『欽どこ』が終わった後も、たまたま隣のスタジオでドラマの収録をしていたら『見栄晴が心配で、大丈夫か見に来ちゃった!』と笑顔で…本当は僕の方からごあいさつに行かないといけないのに、わざわざ来てくださって…」と振り返った。確執が解消されて和解した後の見栄晴の言葉は、真屋への深い感謝と後悔が混ざり合った、複雑で人間的なものだった。

この確執が教えてくれること

真屋順子と見栄晴の確執は、芸能界の派手なゴシップとは一線を画する。そこにあったのは「親子」として長年積み上げてきた情愛と、報告しなかったという不作為の積み重ねだ。どちらかが悪者という単純な構図ではない。

見栄晴さんは結婚や出産の報告を真屋順子さんに一切せずにいたことに真屋さんはショックを受けていたようです。息子のように可愛がっていた見栄晴さんの不義理が相当ショックだったようです。しかし、見栄晴さんはその不義理で真屋順子さんが怒っているということに気づかずに謝ったら許してくれて確執は解消されたようです。

芸能界という世界では、共演者の間に疑似的な家族関係が生まれることがある。テレビの前では何年も「親子」を演じ、その空気感が楽屋の外にまで染み出すことがある。そういった関係において、人はどこまで互いに義理や礼儀を求めるべきか――。真屋と見栄晴の物語は、そんなことを静かに問いかけてくる。

真屋順子は17年間病と向き合い、75歳で生涯を閉じた。怒り、許し、そして愛した。そのまっすぐな人間性こそが、昭和の視聴者に愛された「お母さん」の本当の姿だったのかもしれない。見栄晴が「ごめんなさい」と言えたことで、二人の物語は悲劇ではなく、再会の話として記憶された。それだけでも、十分すぎる結末だと言えるだろう。